人はみんな平等に無価値

価値のある人間なんて誰ひとりいない。と、私は思っている。

人はみんな平等に無価値だ。なんなら地球にとっては滅んだほうがいいからマイナスだ。私も、孫正義も、東海オンエアも、みんな等しく価値がない。

 

それなのに人は、生きることに意味を見いだそうとする。意味がないと生きていけない。どこまでいっても無価値なものに、自分なりの意味を見つけようと必死になる。なにかを作ったり、好きになったり、お祭り騒ぎをしたり、誰かを喜ばそうとしたりする。

人間のそういうところが、とてもかわいくて私は好きだ。

 

ただ、己の人生に価値を持たせたいがために「あいつは自分より上だ・下だ」みたいにランクづけする輩だけはどうしても嫌いだ。きみたちはぜんぜんかわいくない。誰かを否定することでしか、自分を肯定できない人。自分の本質的な無価値さに気づかず、上に立ったつもりで他人を攻撃する愚かな人よ。

 

お金があるとかないとか、マナーがどうとか、ルールがどうとか、態度がどうとか、そんなもんはめちゃくちゃ流動的で、この世に絶対的な正しさなんて存在しない。お祭りの日なら神社で騒いでもいいし、アルカイダのトップなら殺してもいい。

 

「あはは、結局みんな欲望に素直なんじゃーん」と思う瞬間がわりと好きだ。何百年も前からアダルトコンテンツが存在し、どんなに規制されてもこっそり愛され続けているその事実がうれしい。

 

人はみんなダメで、みんな無価値で、それでもなんとか楽しく生きていこうね同盟の仲間なんだと思う。

だから、ほんと、マジで、くだらないことで争わないでくれと思うよ。。

 

人間関係はギブアンドテイク?

私はコミュニケーションがあまり得意ではない。見た目が優しそうなのと、愛想がいいのでなんとなく"うまくやっている"ように見えるんだけど、実はぜんぜん友達がいない。

人の気持ちを推しはかるのも苦手だ。これもたぶん、周りの人からは、なんとなく"わかってる"ように見えているんだと思う。

 

コミュニケーションが苦手だから、話し上手な人や立ち回りがうまい人の言葉や話しかたを見て覚えて、コピーしてきた。

人の気持ちがわからないから、自分の経験や友達どうしのもめごとや愚痴から「感情のパターン」をたくさん集めて、「こういうときはたいていこうだ」の精度を高めてきた。

 

コピーしていたのがいつの間にか自分の話し方かのように思えてきて、

パターンしか見ていないはずがいつの間にか相手の心を直接見たかのように錯覚して、

純化して、社会に順応したふりをして、楽になろうとしていたんじゃないか? 最近。

だから何もかもうまくいかないんじゃないか?

私は人間関係を数式で考えている。ギブアンドテイクの足し算と引き算がちょうどゼロになるようバランスをとっている。そうでないと不安になる。たぶん何か根本的に間違っている。

 

"こなれて"いなかったころはどうしていただろう? もうきちんと思い出すことはできないけど、いろんなことにすぐに傷ついていて苦しかった。多くの他人に対して強く感情を持っていた。

それは必要な苦しみだったのかもしれない? どうなんだろう?

必要なのは苦しくないようにすることじゃなく、苦しみをそのまま受け止め続けられる強靭な器を育てることだったのかもしれない? もっと感情のままに行動していいのかもしれない。ダサくても正しくなくても魅力的ってことは確かにある

 

誰かに正解を教えてほしい。できればライフコーチやカウンセラーやセラピストではない誰かに、、いや、自分で考えるしかないってわかってるんですけどね。またパターンを集める旅に出るか。とりあえず次に感情がわきあがったら、その熱の向かうままに暴走してみよう。

ずっとこのまま

「これ以上何も望まない、ずっとこのままでいたい」こんなことを大学2年生ぐらいからずっと言っている。

それなのに大学2年生の私といまの私はぜんぜん違う。

ずっと一緒にいようねって言ってた彼氏とは別れたし、新しい恋人ができたし、卒業したし、引っ越したし、就活もしたし転職もした。仕事なんてしたくなかったはずなのに自らすすんでバリバリ働いている。

そしていまも「これ以上何も望まない、ずっとこのままでいたい」と言っている。

 

私は成長なんかしたくない。現状維持万歳!圧倒的現状維持!と本気で思っているのだけど、私が変わらなくても環境は変わる。強制的に時間は流れる。いつメンは解散する。好きなバンドも解散する。

環境が変わってもハッピーな心でいつづけるためには、自分も変わるしかなかったのである。

 

特に高校時代の記憶は自分のなかで美化されすぎている。あの頃に戻りたいと思うこともあるけど、いま同じ人と同じことをしたってたぶん虚しいだけなんだろう。

それに、何気ない瞬間があんなにしあわせだったのは、それ以外の時間がつらかったからだ。高校は息苦しかったし当時の自分のことは嫌いだ。ついでに大学時代の自分のこともすごく嫌いだ。そのとき出会った人たちのことは好きだけど。

 

変わりたくない、というのは本心だけど、変わらないためには変わり続けなきゃいけないんだと思う。たぶん。わかんないけど。

誰かと「絶対変わらないぞ契約」を結べばいいのかもしれないけど。でも、いくらふたりが変わらなくても環境は変わる。環境は人の心を変える。行動や関係が変わらなくても、心が変わればもう以前までのようにはいられない。ぜんぶ環境のせいだ。環境むかつくな〜。第三者のくせに出しゃばってんじゃないよ。

 

環境が変わって関係が変わって、それでも一緒にいる人たちはすごいと思う。

 

たぶん私はこれからも「このままがいい」と言いながらどんどん変わっていくんだろう。そのたびに後ろを振り返っては、もう絶対に戻らないものに未練を感じたりするんだろう。でもなんだかんだ言って、いつもいまがいちばん幸せなんだろう。ほんと図太い性格してるなと思う。

青唐辛子と鯖のカレー

勘でつくったカレーがおいしかった。

 

生の青唐辛子を6、7本刻んでサラダ油で炒める。クミン、カルダモン、ターメリック、チリパウダー、マキシマム(なんかいろんなスパイスが混ざった万能調味料)を適当に入れて炒める。気持ち、ターメリックとクミン多め。

香りが出たら刻んだ玉ねぎを入れて炒める。結構じっくり。カレー粉大さじ2ぐらい入れる。

トマト一個を刻んで入れる。サバ水煮缶を汁ごと入れて混ぜる。なすをいちょう切りにしていれる。コンソメの代わりにめんつゆを入れる。
水は入れずに、トマトジュースで伸ばす。味見する。この時点ではまだビビるぐらい辛い。ジャムを入れて辛さを調節する。(冷蔵庫で眠っていた夏みかんジャム入れた。)

最後にクミンシードも追加して完成。

 

食べるときに花椒もかけてみた。辛さが後からきて気持ちいいカレーになった〜。今後は「これが俺流のカレーなんだよね」って言おうと思った。

 

スパイスカレーや四川中華を食べるときの気持ちよさは、サウナに入ったときのそれと似ている。サウナ好きと辛いもの好き、けっこうかぶっているんじゃないかと思っている。

 

 

わがまま

ひとりで家にいる夜、ときどきものすごく寂しくなる。

多くはないけど友達もいるし彼氏もいる、離れてるけど家族も元気だし、仕事は忙しいけど楽しい。

なにもかも手にしているはずなのに、なにも持っていないような気持ちになる。恵まれすぎて頭がおかしくなったのだろうか?

 

地元の友達や家族と離れ、上京しないと東京にいけない、という当たり前のことが、18歳の頃からずっと腑に落ちていない。

新しいものを得るために何かを我慢したり捨てたりしなきゃいけない? なんで? 全部欲しいんですけど? というハイパーわがまま娘が、いまだに腹の中にいる。

もちろん少しは大人になった。人と人は適度な距離感がないと、なかなかうまくいかないことも知った。誰かが犠牲になることなく、みんながハッピーになるためには、個々が自立している必要があると思う。

だから強くなろうとがんばって、少しは強くなったから今がある。それなのに寂しい夜があるのはどうしてなんだ、努力の方向性を間違えたのだろうか。ときどき不安になる。

 

せめて、本当はみんな寂しければいいなと思う。寂しいのが自分だけじゃなかったら、ちょっとだけ寂しくなくなるんだけど。

徒歩30分、電車で28分ってなんやねん

電車や飛行機での移動がしんどい。体力的には楽なのだけど、精神的につらくなる。

行きたい場所があって電車でのルートを検索したら、直線距離では近いのに、乗り換えの関係でものすごく迂回せねばならないとき、心から「はあ!?」と思う。笑

田園都市線沿いから東横線沿いに移動する時とか。「徒歩30分、電車で28分」ってなんやねんと。

仕方ない、と思える人は偉い。大人だと思う。私はものすごくわがままで子供だ。

自分で動いているのではなくて、誰かに運ばれている、ルートを自分で決められない、自由が妨げられている気がする。それに耐えられない。

帰省のために電車で空港に向かい、さらに飛行機で運ばれる時なんて最悪だ。なんでこんなに苦労して運ばれなきゃならんのだ。謎の怒りを感じながら、結局モノレールに乗り羽田空港で手荷物検査を受けている。

 

自分で自分の進む道を決めて、突き進める人が羨ましい。車の運転が得意な人に憧れる。私は大学四年で車の運転免許を取ったけど、未だに運転には不安がある。もっと自由に、思い立ったらいつでも動けるようになりたい。「徒歩30分、電車で28分」の場所へは、車なら10分で行けるのに。

「事故ったらどうしよう、緊張するの嫌だな」と、長らく運転の練習をしていない。自由を求めるくせに怠惰だから、いつまでたってもだめなのだ。立ち上がるときの面倒臭ささえ振り払えば、大きな自由を手にできる。もっと練習しよう。早く自由になろう。行きたい場所があるなら、直線距離で向かおう。他人の運転する電車や車や飛行機は、何もしなくても私を運んでくれるけど、本当に行きたいところへは大いに遠回りをしている。甘えずに動く。自由になるための苦労や不安を惜しまない。車は多少擦ってもいい。まずは明確に目的地を決める。腹括って頑張ろう。

#ハンド全力

"どうにもならんことじゃなくて、どうにかなることをやりたい"

 

"ほんとに全力な人は、"全力"とか言わんからなあ"

 

少し前、「#ハンド全力」という映画を観に行った。

andymori小山田壮平さんの曲が主題歌で、それを目当てに観たのだけど、面白かった。

松居大悟監督の映画は「君が君で君だ」を観たことがある。冴えない奴らの彼らなりの青春、人生において全く無意味なようで、前に進むために絶対に必要な時間ってところが共通していた。履歴書には残らない一瞬のきらめき。

全編通して熊本での撮影で、方言や高校の様子や小山田さんの主題歌によってノスタルジーが許容量を超えて号泣してしまった。

あと、仲野大賀さんの演技がよかった。

豪快で懐がでかくて実は結構繊細な兄ちゃんの役が似合う。「今日から俺は!」のとき然り。

 

気づいたらブログ全然更新してなくてびっくりした。実は下書きは結構書いてるけど公開できるようなものがない。またちょくちょく書いてみよう。