どうしようもない

付き合った人のことを救おうとしたけど無理だった。そもそも私の考えていたような救いを、向こうは求めていなかったのかもしれない

でも、この世界で自分は孤独ではないんだ、と思えるぐらいには価値観が共通していて、だからお互いに惹かれあったはずなのに。

「みんなじぶんの上位互換っぽい芸能人のこと好きって言うよね」を初めて共有できた人だった。

 

そもそも救おうなんて発想が傲慢だということはわかっている。なのに、見るからにつらそうな恋人と一緒にい続けて、つい愚かにもそう思ってしまった。

毎日夜中まで働いて、全然寝ていないし、土日も仕事が残ってて、ごはんはいつも同じコンビニ弁当かUberで、いつも、もう何回も観たネットフリックスやYouTubeを繰り返し流していて、

そうまでしてやりたかった仕事なのかというと、なんか別にそういうわけでもなさそうで、

じゃあ、この人を動かしているものってなんなんだろうと考えたら

「ちゃんとしていなければならない」

というプレッシャーと

「今いる場所よりひどい環境は山ほどあって、その世界線とクロスしたくない」

という、世界への期待のなさのように思えた。

それはおそらく育ってきた環境と、そこへの対処から生まれた呪いのようなものにも思えて、

自分も少なからずその呪いによる苦しみを感じている人間だったから

「ちゃんとしなくても大丈夫、あなたはただ生きてるだけで価値がある、少なくとも私にとってはそうであるから、外野のことは気にするなよ、俺とお前だけのユートピアで暮らそうぜ」

と、言いたくなってしまったのだ。

我ながら重くてキモくて申し訳ない。

 

そんなユートピアを向こうは別に望んでいなかったと思う。相手を思いやるふりをして、私にとって居心地がいいだけの理想を押し付けていた。

私は許されて逃げたかったし、向こうはちゃんとして安心したかったのかなと思う

一緒に暮らすと決めたときの、決定的な動機の違いにすべてが現れていたような気がする。

だからといって私が向こうの理想に合わせる必要もないわけで、つまりはただ「合わなかった」ということなのだろう。

凸凹の形が合わなかった。

求めているものが違っていた。

でも、世界の見え方はあるていど共通していた。

仲良くなれてうれしかった。別れたほうがよかった。両方ほんとうで悲しい

でも、付き合ってよかった。

 

「もう恋愛はいいや」とか「人と人は結局一緒にいられない…」とかいう極端な考え方をしなくなってきたのは、大人になったということなのだろうか

 

人と別れることはつらすぎる。このつらさをなんとか和らげるべく、私たちは試行錯誤している。天国があると信じたり、そもそも本気で人と関わることを避けたりする。

生きている限りいつかかならず別れがくる。

でも、今は一緒にいる。

いたいと思う。

いたいのに居れないこともある。

人生はどうしようもない。他人は自分のものじゃない。それでも人を好きになること、一緒にいようとすることをやめられない、私は。

好きの純度

私は「普通」に憧れていた。普通にみんなで仲良くして、普通にドライブとか行って、普通に行事で感動して、普通に付き合ったり別れたりする。それが正しいと思っていた。当たり前にできてる人が羨ましかったし、どうしたらそうなれるのか全くわからなかった。できない自分はきっとどこかおかしいんだろうと思っていた。

憧れていた人と付き合った。自分より色んなことを知っていて、センスがよくて、(それを好きな自分が好きとかじゃなく)音楽や漫画や絵が好きで、友達もたくさんいて、後輩からも慕われている。こんな人に好いてもらえるなんて嬉しい。やっと、普通に幸せになれるかもしれない、と思った。

でもだめだった。合わなかったと言ってしまえばそれまでだけど、合わないのだということに気づいて受け入れるまで2年かかった。

 

憧れからくる好きという感情はとても強くて魅力的だ。夢中になれる。でも魅力的すぎて、自分を曲げてでも一緒にいたいと思ってしまう。というか、憧れているので、自分より相手が正しくて、それに合わせることで自分も正しくなれると思ってしまう。

自分自身はまったく成長することなく、相手を自分の心に投影してジェネリックに幸せになろうなんて、そんなことがまかり通るわけがない。

だから破綻した。

自分を愛せていない人は、他人のことも健全に愛せない。大学生なんてお互いに未熟で、お互いに、相手を暴力的に自分の内側に入れようとして、傷つけあって限界がきた。

 

好きという気持ちは難しい。「好き」のなかには気を抜くと、たくさんの不純物が混ざってしまう。相手が自分のものではなくても、その人がその人自身のものであり続けていても、むしろそうだからこそ、好きだと言える。それが理想的な、純度の高い「好き」なんじゃないか。

純度の高い好きを成り立たせるには、お互いが自分のことを愛せている必要がある。自分の根源にあるたましいが、完璧で曇りのないものだと信じている。誰かに修正や補強をしてもらわなくていい、と思えている。

そのうえで相手のことを好きだと思う。

自分のたましいを信じられるかどうかには、育った環境がかなり大きく影響するだろう。でも、後天的に身につけることだってできるはず……できると信じたい。だってそうじゃなきゃ、あまりに不平等だ。自分で自分を認めるための鍛錬を積んで、その先で、誰かのことをちゃんと好きになる。そのために、人生をかけたっていいんじゃないかと思う。

感情たちよ

最近なんだか、感情がすぐに表に出てこないことが多い。自分について理解することをサボって、他人の心のことばかり考えていたせいかもしれない。ムカついた時や悲しい時、ブログを書こうかなと思うけれど、うまく形にならないまま下書きに埋まっているものもある。

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↑自分のこういう部分のせいで、今こんなことになっている。

 

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↑これは好き。もっと怒れ


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↑タイトルしか書けなかった。

 

未整理の感情を溜めこみすぎて、下の方のものが取り出しづらくなってきているのかもしれない。久しぶりに類似の感情に出会った時に「あれ、これなんだっけ?」となって、しばらくガサガサ探してやっと「これか!」ってなるような感じ……

こんな人間いやすぎる。

でも感情に振り回されてる人間だって嫌じゃないか。

感情に振り回される自分を見るのがキツいから、社会性のようなもので蓋をして、余裕ぶっている。そうすれば正しくいられる。正しくいられると安心する。でも、たまに足元がガラガラと崩れるような感覚にもなる。私は嘘をついているのだろうか。それすらわからないなんておまえはやばいよ、とも思うし、そんなこと別にみんなわかってないよ甘えるな、とも思う。

悩んでいても仕事をしなければならない。みんなそうだ。ならば非合理的な感情は見なかったことにしたほうが効率がいいのだ。そのせいで私はずっと寂しいよ

もっと怒りたいし悲しみたい、突き動かされたい。心が動くことから逃げたくないけどやっぱキツいから逃げたーい! 私は未熟だ。。でもがんばってやり続けてみてほしいよ。自分に期待してあげたいよ

もし

もしいまの仕事をやめるとしたら、もう一回出版社で本を作ってみたいな。

人よりも愚かなことを自覚しているので、悩みはたくさんある。

それが企画になる職業は、いまのところ書籍編集者以外に思い当たらない。

誰かのためにやる仕事も悪くないし、たぶん向いてるんだけど。

大好きな先輩がいなくなったら、続けられる自信がない。

それも飽きちゃったら、副業でライターやりながらお店をやりたい。深夜に居場所がない人か、東京から一時避難してきた人のための店がいい。店主の顔は見えすぎないほうがいい。毎日、知らない人に「こんにちは」が言いたい。

それもやめたくなったら、もうわからんなあ。

やめたくならんようにするしかないな。

寂しさと一緒に生きていく

「友達には埋められない寂しさ」というものがもしあるのなら、それはたぶん愛によって埋まるものなのだと思う。でも私の場合、確かに愛だと思えるものを手にしても、寂しさが完全に消え去ることはなかった。

自分はなにかを間違えたのか?と思って、ずっと不安だった。

でも最近は少し考えが変わってきた。寂しさはたぶん、人生にとって必要なものなんだ。

 

寂しさがなくなってしまったら、人と人はもう一緒にいられなくなる。

あるべき寂しさを無理やりなくそうとすると、不健全な関係性にならざるを得ないと思う。依存したり、束縛したり、相手をコントロールしようとしてしまう。

 

誰かをきちんと愛することができたとき、私はたましいが震える感覚になる。

生きていこうと思える。

愛することは技術だと、フロムは言っている。私もそう思う。愛することは技術であり、精度の高い愛を成すには職人的なバランス感覚と、それなりのリソースと、強い信念が必要だ。

愛したいのにうまく愛せないとき、私は本気で悲しくなる。自分の浅はかさや狡さに心底がっかりする。人生は寂しさとの戦いだ。寂しさに操られて間違えそうになる自分との戦いだ。寂しさを排除せず、仲良くならなければならない。

大切な人はたくさんいるけれど、ちゃんと愛せたことはまだ全然ない、と思う。相手がどう感じているかはわからないけど……

あのときは愛せていたのに、今日はだめだったなってときもある。

愛することにはゴールがなくて、人生が終わるその瞬間まで、ちゃんと愛せたかどうかはわからないのだろう。

それって超めんどくさい。けど、私は自分で自分に納得して死にたくて、そうするにはたぶん「愛をやれた」という自信が必要だから、しょうがない。

ちょっと前までは、自分と同じようなスタンスで人と接していない人(愛の話とか絶対できない人)にムカついてた(今もか)。でも私の愛だって結局、自分が気持ちよく死ぬためのエゴだ。たぶんその人にもその人なりのエゴがある。それを尊重することは愛だと思う。いまのところはまあそんな感じ。

 

追記

これ書いて数時間後には「やっぱりなんか違うかも…」と思っている。しかも、日曜夜のせいかもしれないけどなんか全然眠れないよ! すごく不安。やばいやばい。愛についてなんかまだなにもわかってない私は。

なにが不安かというと、

明日からちゃんと働けるかどうか。

人を傷つけていないかどうか。

ないがしろにしていないかどうか。

嫌われていないかどうか。

許しちゃいけないことを許していないか。

何か大事なことを忘れていないか。

こんなんでやっていけるのか。

自分のやってることは正しいのか。

彼氏とか友達とか今の職場環境に依存しすぎていないかどうか。

 

書いたらいったん大丈夫になると信じて。不安なままでは他人と関われない 答えを出すと逆に不安になるのだな?

どうしたいか

すべての人にフラットでいたい。

それは、誰に対しても同じ対応をするってことじゃない。誰のことも「ただの人間」として見るということだ。

年齢や性別や肩書きやスペック(本当に気持ち悪い言葉だ 機械用の言葉を人間に当てはめるな)を、できる限り無視したい。

ただの人間として見たときに、魅力的な人のことをちゃんと好きになって、そうじゃない人のことは容赦なく嫌いになりたい。

利害関係や常識や、所属欲や同調圧力、性欲や寂しさに惑わされたくない。

その先に、本物の人間関係みたいなものがあるって信じたいんだと思う。

もしかしたらそんなもの、最初から存在しないのかもしれない。「若いねえ」なんて言われるのかもしれない。でも「清濁併せ呑め。それが人生だ」みたいなことを言ってくる爺婆のようになりたいとも思わないから、別にいいのだ。

 

私たちの世代、特に自分のように地元を離れてしまった人間は、もう親世代と同じようには生きられない。

安心安全の型化された幸せを手に入れるための「正解」ルートは、少なくとも私にとっては、もう途絶えているように見える。

だから自分で答えを探すしかない。不安だし、大変だし、面倒くさいけど。

 

ゴールに辿り着けなくても最悪OKで、大切なのは道中を楽しむ工夫をすることだと思う。

旅行は行きの移動中がいちばん楽しい派だから、そういう生き方はたぶん合っているんだろう。一生折り返し地点なんか迎えずに、行きの移動をし続けて死ねたら、私は幸せなのかもしれない。

大人になっても

益子陶器市で好みの器に出会えた。田舎の広い空を眺めながら、やたらと長い道を歩いた。帰り道、同じイベントに参加したぜんぜん知らない人たちと、ホクホク顔で電車に揺られた。

特急電車に乗って群馬に行った。喫茶店の、日当たりのいい席でカレーを食べた。ふらっと入ったコーヒー屋さんがとても素敵で、店主のお兄さんに群馬のおすすめスポットを教えてもらった。

高円寺でお酒を飲んだあと古着を買った。

会社の合宿で深夜に宿を抜け出して、コンビニでお酒を買ってみんなで熱海の海辺を散歩した。駅前のカラオケで朝方まで遊んだ。

 

最近の、生きててよかった〜!って思えた瞬間。(4分の3、みるさんと一緒にいるときじゃん。)

 

人生は遊ぶためにあるのだと思いたい。生産性なんかクソくらえだと思いたい。フラフラしたり、ボーッとすることを大切にしたい。

人が「〜したい」と言うとき、本当の性格はその真逆のものであることが多い。「謙虚でありたい」と言う人ほど根は傲慢だ。「データが大切だ」と言う人ほど感情に流されやすい。私調べ、これはかなりガチである。

 

私も例に漏れず。根っこの性格は「何かに貢献していないと不安になるから、つい他人に評価されようと頑張ってしまう人」なのだ。

だから仕事は得意。目の前の人に好かれるよう、本能的に動くことができる。しかし悲しいことに、仕事で成果を出しても「生きててよかった!」とは思わない。

 

ただのないものねだりかもしれない。他人を羨むのはやめて、今の自分を肯定すれば楽になれるのかもしれない。でも、まだ諦めないでいたい。

だってやっぱりあの瞬間が、人生の本質だと思うのだ。高校生の頃の放課後みたいな、誰かに評価されなくても、自分たちを最高だと思える瞬間。大人になったいまも、青春を諦めずに生きていたいんだ。