好きの純度

私は「普通」に憧れていた。普通にみんなで仲良くして、普通にドライブとか行って、普通に行事で感動して、普通に付き合ったり別れたりする。それが正しいと思っていた。当たり前にできてる人が羨ましかったし、どうしたらそうなれるのか全くわからなかった。できない自分はきっとどこかおかしいんだろうと思っていた。

憧れていた人と付き合った。自分より色んなことを知っていて、センスがよくて、(それを好きな自分が好きとかじゃなく)音楽や漫画や絵が好きで、友達もたくさんいて、後輩からも慕われている。こんな人に好いてもらえるなんて嬉しい。やっと、普通に幸せになれるかもしれない、と思った。

でもだめだった。合わなかったと言ってしまえばそれまでだけど、合わないのだということに気づいて受け入れるまで2年かかった。

 

憧れからくる好きという感情はとても強くて魅力的だ。夢中になれる。でも魅力的すぎて、自分を曲げてでも一緒にいたいと思ってしまう。というか、憧れているので、自分より相手が正しくて、それに合わせることで自分も正しくなれると思ってしまう。

自分自身はまったく成長することなく、相手を自分の心に投影してジェネリックに幸せになろうなんて、そんなことがまかり通るわけがない。

だから破綻した。

自分を愛せていない人は、他人のことも健全に愛せない。大学生なんてお互いに未熟で、お互いに、相手を暴力的に自分の内側に入れようとして、傷つけあって限界がきた。

 

好きという気持ちは難しい。「好き」のなかには気を抜くと、たくさんの不純物が混ざってしまう。相手が自分のものではなくても、その人がその人自身のものであり続けていても、むしろそうだからこそ、好きだと言える。それが理想的な、純度の高い「好き」なんじゃないか。

純度の高い好きを成り立たせるには、お互いが自分のことを愛せている必要がある。自分の根源にあるたましいが、完璧で曇りのないものだと信じている。誰かに修正や補強をしてもらわなくていい、と思えている。

そのうえで相手のことを好きだと思う。

自分のたましいを信じられるかどうかには、育った環境がかなり大きく影響するだろう。でも、後天的に身につけることだってできるはず……できると信じたい。だってそうじゃなきゃ、あまりに不平等だ。自分で自分を認めるための鍛錬を積んで、その先で、誰かのことをちゃんと好きになる。そのために、人生をかけたっていいんじゃないかと思う。