寂しさと一緒に生きていく

「友達には埋められない寂しさ」というものがもしあるのなら、それはたぶん愛によって埋まるものなのだと思う。でも私の場合、確かに愛だと思えるものを手にしても、寂しさが完全に消え去ることはなかった。

自分はなにかを間違えたのか?と思って、ずっと不安だった。

でも最近は少し考えが変わってきた。寂しさはたぶん、人生にとって必要なものなんだ。

 

寂しさがなくなってしまったら、人と人はもう一緒にいられなくなる。

あるべき寂しさを無理やりなくそうとすると、不健全な関係性にならざるを得ないと思う。依存したり、束縛したり、相手をコントロールしようとしてしまう。

 

誰かをきちんと愛することができたとき、私はたましいが震える感覚になる。

生きていこうと思える。

愛することは技術だと、フロムは言っている。私もそう思う。愛することは技術であり、精度の高い愛を成すには職人的なバランス感覚と、それなりのリソースと、強い信念が必要だ。

愛したいのにうまく愛せないとき、私は本気で悲しくなる。自分の浅はかさや狡さに心底がっかりする。人生は寂しさとの戦いだ。寂しさに操られて間違えそうになる自分との戦いだ。寂しさを排除せず、仲良くならなければならない。

大切な人はたくさんいるけれど、ちゃんと愛せたことはまだ全然ない、と思う。相手がどう感じているかはわからないけど……

あのときは愛せていたのに、今日はだめだったなってときもある。

愛することにはゴールがなくて、人生が終わるその瞬間まで、ちゃんと愛せたかどうかはわからないのだろう。

それって超めんどくさい。けど、私は自分で自分に納得して死にたくて、そうするにはたぶん「愛をやれた」という自信が必要だから、しょうがない。

ちょっと前までは、自分と同じようなスタンスで人と接していない人(愛の話とか絶対できない人)にムカついてた(今もか)。でも私の愛だって結局、自分が気持ちよく死ぬためのエゴだ。たぶんその人にもその人なりのエゴがある。それを尊重することは愛だと思う。いまのところはまあそんな感じ。

 

追記

これ書いて数時間後には「やっぱりなんか違うかも…」と思っている。しかも、日曜夜のせいかもしれないけどなんか全然眠れないよ! すごく不安。やばいやばい。愛についてなんかまだなにもわかってない私は。

なにが不安かというと、

明日からちゃんと働けるかどうか。

人を傷つけていないかどうか。

ないがしろにしていないかどうか。

嫌われていないかどうか。

許しちゃいけないことを許していないか。

何か大事なことを忘れていないか。

こんなんでやっていけるのか。

自分のやってることは正しいのか。

彼氏とか友達とか今の職場環境に依存しすぎていないかどうか。

 

書いたらいったん大丈夫になると信じて。不安なままでは他人と関われない 答えを出すと逆に不安になるのだな?