濁りたくない

ここ数日、旅行したりちょっとへこんだりしててブログをサボっていた。(誰にも見せない感情整理のためのnoteは書いていた)

 

今日、愛☆まどんなさん×ゆうこすさんのトークイベントに行ったら復活したので書きます。

 

以下内容メモ。

・美少女とは?

性的な趣味ではなく、崇拝する対象、天使とか女神のような意味で少女が好き(愛まさん)。日本は無信仰というけれどこの国は少女崇拝の国だ(山田玲司さん)。

愛☆まどんなさんの絵は確かに見る人が見れば過激かもしれない。裸やパンツをはいていない少女(幼女?)がモチーフのことが多い。でもそれを性的にいやらしいというか、下品なエロ漫画みたいな気持ち悪さを感じたことはなかった。色遣いもポップだし、なんだかアートとして昇華されている感があったので、なぜ気持ち悪くないのか疑問に思ったことはなかったけど、信仰の対象として描いていると聞いて腑に落ちた。宗教画は別にエロくないもんね。(愛まさんの絵は、褒め言葉としてのエロさ…色気?パワー?は感じるけれど)

偶像としての少女への崇拝。アイドル。本当にアイドルのことが好きな人は彼女たちを性的な目で見ていないと思う。

 

でもこの感覚、わからない人にはわからない。愛まさんの展示、一度は中止になったそうだ。作品が過激すぎるという理由で。「表現の不自由展じゃん」と本人たちは笑っていたけれど、わかってもらえないのは悔しいよな、と勝手に考え込んじゃった。

 

・解説が必要なアートは死んでる

生きたアートに解説はいらない。子供が花を美しいと思うのと同じように、一目見て良いと思う。本来アートはそういうもの。知識や教養なんて必要ない。

ただ、ある程度古い絵になると、一目見て良さはわからない。時代背景が違うから。だからその時代の歴史、作者の生活、派閥みたいな前提知識を入れることで、初めて良さがわかる。

古い絵を理解するためのそういう試みが、いつしかアートを格式高い、一部の知識のある人たちだけのもののようにしてしまった。

けど、直感で衝撃が走らない絵って価値はあるけどもう死んでいると俺は思うね(山田さん)。

うーん納得。

 

・愛まさんの話の方に共感

・でも編集者さんやゆうこすさんの話には納得

・どちらもわかる人になりたい

昔から絵を描いたり物を作ったりするのが好きだ。他の人の作品を見たり集めたりするよりも、自分で作る方が好きだった。どちらかというと作る側の気質なのだと思う。でも、それを仕事にする情熱も勇気も根気も狂気もない。だからこそクリエイターさんのことを本当に尊敬している。

ゆうこすさんはどちらかというと、広める側の視点を強く持っているように思った。伝えたい相手を思い浮かべて、共感してくれるほうに狙いを定めて、戦略的に。そして、他者の才能に敏感だ。

両方すごい。「作り手の気持ちを理解できるスーパー広め手」になりたいな。

 

・白亜(愛まさんの漫画。今日のトークイベントはその第2刷の発売記念イベントでもあった)、話聞く前は高いと思ってたけど聞いた後だと買わずにはいられなくなった。作者の熱量、こだわり、それが存分に発揮されたであろう環境を確信することができたから。

最近、映画とか漫画とか小説とか、買うのを少しためらう。失敗したくないという気持ちが昔より強い気がする。値段が高ければ余計。

昔は何でも自分でdigるしかなかったから失敗なんて当たり前だったけど、今はネットで簡単にレビューを見れて、失敗することが減ったからだろうな。

 

トークショー聞く→買う の流れ(と似たようなこと)がもっと多くの人に体験できればいいのに。

 

 

とりあえず以上!

 

面白いものを作ることと、相手の才能のリミッターを外すこと。そのどちらかしか考えていない人達。作者と編集者。本当にキラキラしている。「好き」の話は、聞いていてすっごくわくわくする。胸が高鳴る。この感情を大事にしたい。

誰もが子供の頃はそんなわくわくに素直だったはずなのに、そんな形のない感覚は、形のある諸々によって段々押し込められてしまう。

リスク、コスト、常識、しがらみ、世間の目、、

そういうもので濁らされてできたものには、胸の高鳴るようなパワーは宿らない。濁らされない強さを持って、わくわくするものを真っ直ぐにやれば絶対面白いものができる。

わくわくする、って、言葉で説明しにくいし目に見えないから、不安になって目に見えるものに惑わされそうになったりするけど、大丈夫間違ってないって、作品で示してくれる人たちがいる。

それを信じて、純度保っていきたい。

そのほうが絶対人生楽しいからね!